日本からのお客様によく訊かれることで、自分自身もいつも気にかけていたことだった。
それが、この表題である。以下自分なりにまとめてみたので、参考になれば幸いである。
端的にいうと、クリケットそのものが、インド人の歴史的アイデンティティと融合したからともいえよう。
英国の植民地統治時代に有閑貴族が退屈な駐在生活時代に始めたのがこのスポーツとも言われる。インドにもこれが根付いた。映画「ラガーン」はインドでは誰もが歓喜する映画だ。これは、クリケットの国の威信をかけて戦うスポ根映画。英国総督府をクリケットで打ちまかし重税から解放されるラストシーン。豊作を告げる天の恵みの雨の中で、群集たちの歓喜の嵐のシーンは象徴的だった。
大英帝国は植民地国を甘くみていた。まさか本国発祥のスポーツで負けるわけはないとの慢心。インド人のレジリアンス・反撥力を過小評価した。それが現在でも尾を引いていると感じるのは当方だけではないようだ。英国はクリケットでは現在でも弱小国に成り下がっている。英国連邦56カ国を背景に行われるクリケットのW杯では今やインドとオーストラリアの二強時代が到来した。今月行われた決勝は文字通りインドとオーストラリアとなった。惜しくも準優勝した翌日はどこも静かだった。もとより、仮想敵対国パキスタンとはインドの国の威信をかけた試合となりインド国民が固唾を飲んでテレビに齧り付く。現在インドはパキスタンにW杯8連勝中だ。
インドで著名なクリケット選手の俸給は、15億ドル規模といわれアメリカのメジャーリーガーの高給取りの3倍と言われる。クリケット選手になることは、インド人の幼少からの夢だ。インディアンドリームとも言われている。インドは古くからの階級制度への葛藤の歴史であり、暗黙の社会的差別からの解放を目指し、物欲や金力への無上の憧憬がある。土地の所有や金力への渇望とクリケットの偶像が結びつく。一流プレイヤーこそインドの映画界も憧れるドリーム、インドの人々の夢の体現者となっている。このインドの桁違いの関心を背景に、今世紀に入り、クリケットは、サッカー初め、バドミントン、ホッケーなどと共に、相次いでプロリーグ化した。トトカルチョでは1試合で一千億円以上の金額が動くとも言われている。
選手には数々のレジェンドも多く、奇跡を起こしてきた。インドの世界に誇れる遺産は、このレジェンドの精巧なコントローや豪速球を投げる投手や6打席連続ホームランそして100打点以上を稼ぐ打者のヒーローたちだ。
野球に慣れ親しんだ我ら外国人には、クリケットのルールは、最初は極めて複雑でとっつきにくい。11人でプレーし、規定投球回数の中で、10人が倒れるまで点数と競う。野球の三振ではなく一振でアウトとなる。フライをキャッチされたり、帰塁が遅れてもアウトだ。9回の攻守交代はなく1回で攻守交代をこの一振アウトの10人を倒すまで戦う。ゴロで外野に転がせばベース間を往復し、片方にバットをつけば1点、返球まで往復すれば2点が入る。ファールゾーンもなく打球は360度がフェアゾーンとなる。
野球のような延長12回などの規定回数はないが、300という規定投球回数にインドの人々の楽しみ方が隠されている。攻守にわたり各チームは300投球という規定投球数をストライクゾーンに投げるよう義務付けられている。全身全霊で助走しスピンを加えるので、疲労困憊する。投手であるボーラーは1人、60球までとされ、この300投球を 投手5人で投げわける。頻度の多い外野まで転がせば最低1点なので、この300投球は300得点を意味する。
野球やサッカーのような僅差ゲームでなく、最初から300得点という数値で、勝劣の行く末を楽しむわけだ。相手の攻撃を300点以下に抑え込めば有利となり、また先攻で300点以上得点すれば勝利への期待が膨らむ。投手は真面目にストライクゾーンに放らないと1点のペナルティが相手に特典となる。これらのジャッジは早くからV A Rが導入され、コンピュータの打球方向予測や選手のデータを駆使しているので、極めて知的レベルも高くなる。
300投球の中の塵のような一球でも、それぞれ、何よりも真面目に、一球一球に、全身全霊を込めて打ち込む姿は、インド人の日常への姿勢そのものだ。インドの日常、遠き道のりを歩む真面目なインド人気質が垣間見えるのだ。生か死か、一振アウトの世界である。
流石に1試合5、6時間は長すぎる。正規の試合はW杯でも試合日程はオリンピックよりも長くなる。中には、T20(オーバー)という300投球を120投球にしたゲームも導入されている。これで試合時間も半減した。でもそもそも、この一見ダラダラと流れる試合をどうやって楽しむというのだろうか?
野球のフルカウントは5球だが、クリケットは6球を1束にする。300は50束(オーバー)になる。この1束の6球で平均6点入れれば御の字だが、外野席へのホームランは6点、外野をゴロで抜ければ4点が入る。6球1束の中で、ホームラン1回、外野ゴロ破り1回あれば計10点だ。これを50束すれば総得点は500点に近くなり500>300の見込みで興奮を誘う瞬間となる。観客は長い時間を忘れ瞬間の歓喜に酔いしれるわけだ。
試合の大詰めは、強打者が並ぶ五番打者が倒れ、規定投球数の残りと点数の比較予測が、観衆をハイにする。強敵オーストラリアやパキスタンとの行き詰まる攻防を一度でも味わえば、やっとなぜインド人がこうも熱心になれるかわかる気もしてくる。ゲームの終焉の時こそ、共に味わう至高のクライマックスの瞬間なのであろう。